| 2025/7/16-7/19 五島列島縦断5島の教会めぐり |
| 3.海上タクシーで4つの島々の教会をめぐる ◆奈留(なる)島の「江上天主堂(えがみ)」 2025/7/18 |
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| 森の中にひっそりと佇む「江上天主堂」。まるでおとぎ話に出て来そうなほどに愛らしい。1918年、上五島出身の建築家・鉄川与助が設計・施工した。森の中に建つので湿気を防ぐため、床を高く上げるなど、各所に工夫が施されている。世界遺産と、国の重要文化財に指定されている |
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| 海上タクシーのベテラン船長さんは大波をよけ、島影をすり抜け、無事、奈留島(なるじま)へ私たちを運んでくれた。江上天主堂までは海岸線を10分ほど、森をめざして、歩く | こんもりとした森の先に江上天主堂が建つ。江戸時代末、わずか4世帯から江上集落の人々の間に信仰が拡がっていった。自宅で行っていたミサはやがて簡素な教会で行われるようになり、1917年、森の中の教会建築が始まった | |
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| 海外沿いの道路脇に現れた石壁。海からの風をさえぎるためなのだろうか、ひとつひとつ形のまるで違う石が高く積み重ねられている。途方もない作業だっただろうなと思う。どこを見てもただ山々が連なるだけの奈留(なる)島に入植した以上、「辛抱強さ」こそが奈留島に住み続けるための最低限の心得だったのかなと思う。宗教を守るためにこの僻地・奈留島へ移り住んだ信徒たち。この山々をコツコツと切り拓き、生きていくためには信仰の力こそ不可欠だったにちがいない | ||
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| 教会に必ず付いている十字架が江上天主堂にはない。代わりに丸い瓦に十文字が付けられているのが特徴。屋根の軒裏の花模様のくり抜きもまた通気をよくし、湿気を防ぐための通気口となっている | ||
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| パンフレットからスキャンした江上天主堂の教会内の画像。教会の中は撮影禁止なので、パンフレットの画像を拝借させてもらった。天井は西洋の教会建築であるリブ・ヴォールト天井(こうもり天井)を木造で再現し、丸いアーチがことのほか、美しい。また信徒たちによって、一本一本の柱に櫛で木目模様を描き、竹べらで掻き落とすという「木目書き」と呼ばれる工法が施されている。信徒たちの江上天主堂への並々ならぬ愛情が感じられて、感慨深い | ||
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| ステンドグラスを購入する資金も切り詰めるためだったのだろう、信徒たちは透明ガラスにひとつひとつ桜の花模様を手書きしている。当時、2万円という莫大な建築資金を40〜50戸の半農半漁の小集落である江上の人々が捻出するには並大抵の努力ではなかったはずだ。建築費を抑えるため、信徒たちは自ら、建築作業を手伝った。当時、豊漁だったキビナゴ漁はこの時の信徒たちにとって、まさに神様からの贈り物だったに違いない(※こちらの2枚の画像もパンフレットから拝借) | ||
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| よく見ると、小さな石が教会の周りをぐるりと敷き詰められ、少し大きな石で縁取りされている。なんときめ細やかな心配りだろうと感心してしまう。石ならどこにでも転がっている。その小石を敷き詰めて、江上天主堂をきれいに縁取りしているのだ。お金はかからないけれど、これまた膨大な作業になるに違いない。ひとつひとつの石に込められた江上集落の人たちの想い。江上天主堂の完成を待ち望み、敬い、いかに慕っていたのか、その並々ならぬ想いが偲ばれる |
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| 江上集落は、奈留島の北西部の西海岸のこんもりとした谷間に4戸の潜伏キリシタンが入植したのが始まり。わずかな農地を耕し、漁で生計を立てたという。現在の江上集落は過疎化が進み、信徒数もわずかになってしまったそうだ。森の中の江上天主堂が今も愛らしい姿のまま、残っているのも、きっと信徒さんたちが手入れをされているからかなと思う |
| ◆久賀島(ひさかじま)の旧五輪教会堂(きゅうごりん) 2025/7/18 |
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| 「教会内、撮影してもいいですよ」と言われ、余りに嬉しくて、どこから写そうかと目がさまよう。五島の教会をあちこちめぐってきて、ずっと教会内部は撮影を禁じられてきた。いざカメラを構えようにも、なぜかいけないことをしているような気がして、おどおどしてしまう。今は教会の役目を終えた旧五輪教会堂だが、この教会が昔から培ってきた威厳ある息遣いを感じとってしまったからかもしれない |
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| 帽子をとり、教会に入ると、わたしは祭壇の前に立ち、「神に感謝」と、そっと胸で十字を切る。旧五輪教会堂に足を踏み入れた瞬間、今なお色鮮やかに残された入り口扉の上の装飾を見上げて、胸打たれてしまった。なんと優しくて、そして、力強い色彩なのだろう |
| 禁教時代、隠れキリシタンたちは神道や仏教を信仰しているかのように装いながら、キリスト教の信仰を守り続けてきた。しかし、1868年、五島じゅうで「崩れ」が始まり、五島藩(ごとうはん)は長崎の外海(そとみ)から多くの開拓移民を受け入れていた久賀島(ひさかじま)を特に厳しく弾圧した ※崩れとは キリシタンの検挙の中でも、特に大規模なものをさし、厳しい取り調べや密告からキリシタンの信仰が発覚すると、集団で捕縛されることで、信仰組織や集落が崩壊してしまうことから、「崩れ」と呼ばれたという |
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1868年、五島じゅうで「崩れ(五島崩れ)」が始まり、五島藩により、外海(そとみ:長崎県外海地区)から多くの開拓移民を受け入れていた久賀島の弾圧が激しさを増した。6坪(12畳ほど)の牢に約200人が押し込められ、42人が亡くなるという「牢屋の窄殉教事件(ろうやのさこ
じゅんきょうじけん)」が起きた。狭い中に大勢が押し込まれ、ひたすら立ち続けるより他なかったのだ。 この事件により、世界中から非難を受けた明治政府は「宗教の自由化」に向け、大きく舵を取らざるを得なくなったという。 最後の「崩れ」が行われた久賀島(ひさがじま)は今、世界じゅうのキリスト信者が訪れる巡礼の地になっている |
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| 現存する教会としては、国内最古の部類に入るという |
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| これが告解室?赤くて薄い布が下がっただけのあまりに簡素な告解室 | 屋根を覆う木目が歴史を感じさせる | |
| ◆中通島(なかどおりしま)のランチ 2025/7/18 | ||
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| また雨の中、海上タクシーでランチの店がある中通島へ向かう。船長さんができるだけ波のない島影を通るコースに変更し、無事、中通島へ送り届けてくれた。とめどなく雨が降りしきり、中通島(なかどおりじま)と頭ヶ島(かつらがしま)を結ぶ赤い橋も船の中からはよく見えない | ||
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| 地元で獲れた魚のすり身を挟んだ魚バーガーと、ちょっとエスニックな味付けの五島うどんのランチ。若い女性のガイドさんいわく、「ちょっとわたしらが食べる味とちがうんですよねぇ」と小首をひねっていた | |
| ◆大雨の中、船とバスを乗り継いで、「頭ヶ島天主堂」へ向かう 2025/7/18 | |
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| 橋を渡って、頭ヶ島(かしらがしま)へ。五島列島の島々にはたくさんの橋が架かっている。どの橋もなぜか赤一色、しかも、あちこちに橋がかかっているので、なんという名の橋なのか、見当もつかない。色分けすればいいのに、と思ってしまう(^_^;) | |
| ◆「花の御堂(みどう)」と呼ばれる石造りの「頭ヶ島(かしらがしま)天主堂」 2025/7/18 | |
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| 頭ヶ島天主堂は、五島列島の中通島(なかどおりじま)の東の小さな島「頭ヶ島(かつらがしま)」に建つ。雨が降りしきる中、うつむいて歩いて行くと、忽然と階段も手すりも石垣も全てが石造りの荘厳な「頭ヶ島天主堂」が目の前に現れる | |
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| 頭ヶ島天主堂の材料となった石は、島内の砂岩を切り出したもの。その砂岩を使って、全国でも珍しい石造りの教会ができ上がった。建築方法は大きな砂岩を組んで築いていくのだが、ひとつひとつの砂岩はとてつもなく大きい。ひとつの石を4、5人がかりで運ぶので、一日に2、3個ずつしか運べなかったそうだ。そのため、完成まで約10年を費やしたという | |
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| 頭ヶ島資料館で見た教会内の画像と図を拝借させてもらった。頭ヶ丘天主堂の内部は愛らしい色で統一され、天井にも壁にも五島列島のシンボル「椿の花」がいっぱい描かれている。「花の御堂(みどう)」と呼ばれる由縁だ。天井は見慣れたリブ・ボールト天井(こうもり天井)ではなく、柱のない船底のような形をした「折上式天井(おりあげしきてんじょう)」。天井を支える柱がないのも頭ヶ島天主堂の大きな特徴だ | |
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| 入り口の上部にも壁の跳出たし梁(はり)にも白椿の彫刻があしらわれている。通常、教会の入り口は正面にひとつ、側面にふたつで、3つの扉がある教会が多いが、狭い頭ヶ島天主堂では、真ん中に入り口があるだけだ。その入り口の両側に扉の変わりなのか、半円アーチの窓が一対あり、外の光を取り入れていた |
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| 頭ヶ島天主堂の脇に飾られたマリア像。その脇に、見事に高い砂岩の石壁がある。多分、気が遠くなるほどの年月を費やして、でき上がったに違いない。マリアさまが静かにこちらを顔を向いていた | |
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| 頭ヶ島の五島観光歴史資料館のキリシタン墓地のビデオをカメラに収めた。キリシタン墓地には仏教徒とキリシタンが一緒の墓地に埋葬されている、後世では分け隔てなく一緒に、という想いが伝わってくる |
| ◆若松島を見下ろす高台にそびえる「土井ノ浦(どいのうら)教会」 2025/7/18 | |
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| 絶えず土井の浦港を見下ろすキリスト像 | |
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| 若松島の土井の浦港から見上げると、高台に真っ白な「土井ノ浦教会(どいのうらきょうかい)」がそびえている。1915年、大曽教会(おおそ)を買い受けて修復された教会で、教会横の「カリスト資料館」があり、教会や信徒にまつわる貴重な品々が展示されている | ステンドグラスの画像はネットで公開している「小さな巡礼」のビデオより拝借 |
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| 入り口両側の窓のステンドグラスや、玄関上のバラ窓と呼ばれる丸窓の装飾は残念ながら外からだと見えずらい |
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| 土井の浦の信徒が隠れ住んだ洞窟。朝の食事作りの煙で漁師に見つかり、捕まり、拷問された。 1967年、彼らを偲んで、彼らが隠れ住んだ洞窟に「平和のキリスト像」が立てられ、11月の死者の日に、記念ミサが行われるようになった。100人近い信者さんたちが集い、ミサを執り行う神父さまと共に画像に写っている。今回、波が激しく、唯一行けなかった場所がここだ ※画像は、カリスト資料館のビデオを撮影したものを拝借 |
| ◆「土井ノ浦(どいのうら)教会」の隣りにある「カリスト記念館」 2025/7/18 | ||
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| 禁教令が解かれ、ようやくキリスト像やマリア像が教会に飾られるようになった。貧しく、つつましい生活をしていた信徒たちにとって、マリア様として慕うことができる観音様を手に入れることができる者は少なかったはずだ。彼らは観音様などの代用品として、あわびの貝殻を信奉した。密かに光を放つ貝殻にマリア様の温かい光を見出したのだろう。ちなみに、熊本県の天草にもあわびの貝殻を信仰の品として用いる文化があるという | ||
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十字架のキリスト像のペンダント、見つかれば、命が危ない。信仰が命と同じだけの重みを持っていたことを今の時代に理解するのは難しい。 左の「ハンタマルヤ像」はサンタマリア像のこと。このマリア像は観音様の顔立ちをしている。隠れキリシタンたちは観音様をマリア様に見立てて、表向きは仏教徒として生活し、ひそかにキリスト教の信奉を続けていた 隠れキリシタンは禁教令のもと、祈りを捧げる教会もなく、且つ指導者がいない中で、表向きは仏教徒のように振る舞いながら、信仰を続けた。ただ指導者のいない信仰はやがて、本来のキリスト教とは違った形の宗教に変わっていった。 五島列島では1割が仏教徒、3割が隠れキリシタン。また、島によって、事情も異なり、特に久賀島(ひさかじま)は長崎の外海(そとみ)から、隠れキリシタンと知りながら、たくさんの移民を受け入れたことから、五島藩(ごとうはん)から厳しい弾圧を受けた。 1873年、キリシタン禁制の高札が撤去。禁教令の中、神父様や教会がないまま、ひそかな続いた信仰はようやく開放され、潜伏キリシタンたちの洗礼や教理教育 が急速に進められた。その中で、昔ながらの隠れキリシタンの信奉を選択するものもいたという。 1873年2月、ついに念願の神父さまが来島し、フレノ神父の堂崎での野外ミサには、1000人を超える下五島各地 のカトリック信徒が船で集まった。 それ以降、宣教師と伝道士らの協 力により、潜伏キリシタンたちのカトリッ クへの復帰が進められていき、 1877年からフレノ神父やマルマン神父に続く神父さまや信徒を中心に五島に次々と教会が建設 されていった。 |
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| カリスト殉教顕彰碑。カリストとは、方言でキリストを指す言葉かなと思っていたら、そんな単純なことではなかった。カリストとは、実在した日本人で、戦国時代、若松島で活動したキリスト教の伝道師だった人物。日向(ひゅうが)に生まれ、長崎県南島原で布教後、五島に渡り、若松を根拠地でして、27年間、各地で伝導したという。その熱心な活動により、キリストの父・教師と慕われたそうだ。しかし、五島藩に捉えられ、1624年、処刑された |
| ◆水鏡に写る「中ノ浦教会(なかのうら)」 2025/7/19 | |
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| 波のない日に水鏡に中ノ浦教会が写るという。写った姿は逆さにしても、どちらが本物なのか、判らないほど鮮明さらしい | |
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| 中ノ浦教会にたたずむマリア様の姿はことのほか美しい。木造教会では珍しい高い尖塔が特徴のひとつ | |
| ◆国の重要文化財の「青砂ヶ浦(あおさがうら)天主堂」 2025/7/19 | ||
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| 1910年に鉄川与助によって手がけられ、初期のレンガ造りの傑作とも言われている「青砂ヶ浦天主堂。国の重要文化財で中通島(なかどおり)の北部に建つカトリックの教会。伝統を重視したデザインが特徴 | ||
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| ガイドさんから教えられて、ハッと気づく。レンガの組み方が教会によって、違うとは思ってもいなかった。特に青砂ヶ浦天主堂のレンガの積み方は特殊で、ちょうどこの立看の両側に十字の模様が設(しつら)えてあるのがわかるだろうか。少し濃い目のレンガがちょうど十字の形になるよう、組まれている。そういわれて、改めてレンガを見ると、縦に十字が整然と並んでいた。なんと、きめ細かな配慮だろう | ||
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| 旅の最終日に青空が現れ、青空と白い雲に向かって、赤レンガの青砂ヶ浦教会(あおさがうら)が悠然とそびえている。教会の建設費用は信徒たちが出し合うのが習わしで、この青砂ヶ浦教会には当時、信徒数はおよそ50戸ほどで、1戸あたりの負担額は20円ほどだったという。当時、100円で家が一軒建つぐらいの金額から考えると、貧しい暮らしの信徒たちにとって、負担額20円は途方もない金額だったはず。それでも教会建立が無事完成したということは、きっと信仰が成せる技なのかなと思う | ||
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バスガイドさんが持参した青砂ヶ浦教会の内部の写真を写させてもらった。赤いじゅうたんの先の祭壇がみごとだ。 隠れキリシタンの人々の歴史を垣間見て、自分の信仰心は?と問うてみる。ふ、軟弱そのものだね、と自分自身に応えて、ため息がこぼれる。 今回の五島列島の教会めぐり、果たして今後のわたしの教会通いに役立ってくれるのだろうか。 これからの生き方は?・・・とてつもなく大きな課題を前に、この旅を終えた今も「答」らしきものにはまるで行き着いていない気がして、虚しさがこみ上げてくる |
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