2024/1/16-2/19 南米&南極&クルーズ&マチュピチュ35日間の個人旅行

 14.インカ帝国が築いた天空都市「マチュピチュ」

インカ帝国が築いた天空都市「マチュピチュ」。
チリに行くなら、ついでにペルーのマチュピチュまで足を伸ばそうと、
nabeさんが「旅のおまけ」を思いついた。

マチュピチュの街を見下ろした瞬間、まず、その規模の大きさに圧倒される。
到底、一眼レフでは収まり切れない石造りの街が山すそに向かって拡がっていた
山の上の石造りの街を3時間、上ったり、下ったり。
最後は膝がガクガクだった(^_^;)
1.早朝、マチュピチュへ 2024/2/16
飛行機から見たクスコの街 マチュピチュへ行くパノラマ列車 温泉街に似たマチュピチュ村

実は今回のマチュピチュ行きは「旅のおまけ」だったため、超強行軍となった。サンティアゴでクルーズ船を下り、そのまま飛行機でクスコへ。クスコではその夜、バレンタインパレードがあり、いろいろな疲労(サンティアゴで詐欺に遭う)と、満足な食事を摂る時間がなかったこともあり、パレード中に高山病を発症。その翌日の早朝5:00がマチュピチュ行きだった。しかもマチュピチュツアーはなんと15時間の長~いツアーだった(^_^;)
2.アグアス・カリエンテス駅からパノラマ列車「エクスペディション」に乗る 2024/2/16
クスコのアグアス・カリエンテス駅までは車で田舎道を走り、ようやくアグアス・カリエンテス駅に到着。駅には店がおもしろそうな店がずらり アグアス・カリエンテス駅で青いパノラマ列車「エクスペディション」に乗り換える。座席も広くて、ゆったり。天井にも窓がある
車内にはインカ文明をしのばせるイラスト。それにしても列車に沿って流れる濁流ウルバンバ川が荒れ狂っていて怖いほどだった
前夜はぐっすり眠り、朝食もしっかり食べ、高山病もひどくならずに済んだ。クスコの約3400mからマチュピチュ駅の約1800mに高度が下がるので気分も改善 陽気な2人連れのイタリアおじさん。「見てくれよ、ボカ・ジュニアーズのユニフォームだぜ」とおじさん。ボカ・ジュニアーズのプロサッカーチームは有名なチーム
車内販売のスタッフさんが薦めてくれたマテ茶(有料)は何回も飲んだ中で一番おいしかった。しかも教えてくれた通り、紙コップを持っていくと、またお湯を足してくれた。何杯でもお代わりができるそうだ 
3.マチュピチュ駅に到着し、マチュピチュ村の探検 2024/2/16
駅構内のおしゃれなカフェ 駅から民芸品市場を通り、外へ マチュピチュ村の歓迎ゲート
マチュピチュ村の橋からの眺めが日本の温泉街に似ている、とよく言われるが、なるほど、そんな感じもする。実はマチュピチュ村には温泉もあるという。橋の欄干に恋人への愛を誓う錠(かぎ)がびっしり付いていた
パスポートにマチュピチュ村の判。粋な計らい アルマス広場で1時間ほどフリータイムとなる
インカ帝国の第9代皇帝のパチャクティの像の前でハートのオブジェの後片づけ
そのバチャクティの像の下で、子どもたちは真剣な水遊び(^_^;)
4.マチュピチュ村の教会と初代村長「野内与吉氏」 2024/2/16
教会からアルマス広場をのぞく
時間があったので、教会をのぞいてみた。そして、HPを作成時、このマチュピチュ村の教会の名前をネットで探していたら、偶然、マチュピチュ村の初代村長が日本人の野内与吉氏だったと知った。野内与吉氏は福島県の裕福な農家に生まれ、海外で成功したいという夢を抱き、1917年、契約移民としてペルーへ渡った。後にクスコとマチュピチュを結ぶ鉄道に尽力し、マチュピチュ村の初代村長になったそうだ
ネットで写真を見て気づいた。ちょっと鮮やか過ぎるこの教会の装飾も、依然はもっと質素だった。教会も観光化されたのかも?
5.マチュピチュ遺跡に到着 2024/2/16
マチュピチュ村からミニバスに乗り、つづら折りの急斜面のデコボコ道「ハイラムピンガムロード」をくねくねと上る。マチュピチュ駅の1800mの標高から今度は2450mの高さまで一気に上るのだ。ピンカーブだらけの道をかなりのスピードで走る。窓をのぞけば、奈落の底のような深い谷間。さすがのわたしもちょっと怖かった
マチュピチュ遺跡入り口に到着。遺跡内にはトイレがない。ここで済ますよう、ガイドさんが言う。現在は現地のガイドなしでは遺跡内に入ることはできない ガイドのMigue(ミゲル)。本当にマチュピチュが大好きな人で資料を見せながら、熱心にガイドしてくれた。話が難しくなると、私は一部しか理解できなかった
6.マチュピチュ遺跡の前に立つ 2024/2/14
見張り小屋に上り、とうとうマチュピチュ遺跡の全貌が臨める展望台の上に立った。遺跡の背後にそびえるワイナピチュに雲はかかっていない。ここに来るまではマチュピチュ遺跡は山の頂上にひと塊のようになっていると思い込んでいた。今、目の前に広がる石造りの街は山の裾野に向け、左右に押し流されたように拡がっている。その眼前の景色はわたしの想像をはるかに超えていた
一眼レフでマイナピチュと遺跡を一緒に写すことは不可能だった。それぐらい規模が大きかった。しかたなく望遠レンズをいっぱいに延ばして、石造りの家並みを見下ろした。観光客が石の合間を縫って歩いている。三角屋根の2階建ての家と人間の大きさのバランスが妙に合っていた。ひと家族4人ほどが暮らすのにちょうどよい大きさの家に見えて、一気に遺跡が現実味を帯びてきた
思いなおして、マチュピチュの街の全貌だけを撮してみる。人の姿がアリのように見える。遺跡には1本だけ木が残っていて、その木の右側がコンドルの神殿。コンドル神殿の前から緑色のきれいな広場が1段ずつ上がって、ワイナピチュのほうへつながっていく。奥の一番広い広場がメイン広場だ。木を挟んで、右半分が技術者の家や3つの入り口の家などの建物群。その木の左側が皇帝の部屋や王女の部屋がある建物群
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見張り小屋からのマチュピチュの全貌
7.見張り小屋 2024/2/16
最初に立ち寄るのが見張り小屋。この小屋からマチュピチュ全体が見渡せるため、見張り小屋だったのではないかと言われている。ツアーの始まりがこの急なでこぼこの石の階段だった。ふと、あの大きな遺跡の街をこういう石の階段で3時間も歩き回るのかと一抹の不安がよぎる
見張り小屋は三方に壁がある「ワイラナ建築」様式の造り。屋根には藁ぶき屋根を後に設置。その見張り台のそばで記念の集合写真を撮った。ガイドのミゲルに連れられ、6人のツアーが始まった
7.マチュピチュ遺跡の修復や手入れ 2024/2/16
遺跡のてっぺんで、石組みをしている作業員の姿をレンズで捉える。遺跡の探検中、石組みの修復や、石と石の間の草むしりや、山のような草の袋を背負った青年などを目にした。このような作業のお蔭でマチュピチュ遺跡が守られている。遺跡にとって一番重要な事は、後世のために「遺跡を守る」ことだ
ミゲルに連れられ、作業をしている人たちのそばを通った。監督のような人が図面を見ながら指示。縄を伝って降りて行く危険な作業だった。石には番号も振られていて、以前のままに組みなおすという作業だ
作業中の場所は山の斜面の一番端。こんな危険な場所で石組み作業が行われていた
雑草をいっぱい詰め込んだ大きな袋を背負った青年。下には石壁の草を取っている作業員の人。いろいろな場所で雑草を取っている人や大きな袋を背負った青年たちを目撃した
8.太陽の神殿と陵墓 2024/2/16
ガイドのミゲルの話の中で一番、印象に残った言葉がある。マチュピチュが繁栄したのはインカの人々が「石」、「水」、「太陽」を手にすることができたからだと言う。遺跡の中を歩きながら、なるほど、と思うことが多かった。「太陽の神殿と陵墓」は、マチュピチュ遺跡の中では珍しく丸いカーブの弓形の石組みになっていた。弓形の壁には東と南に小窓。夏至の時には東の小窓から太陽の光がまっすぐに差し込み、冬至の時には南の小窓から太陽の光が差し込むという。インカ文明は「太陽」と「水」と「石」を治めた英知の文明だった
9.食生活を守った段々畑「アンデネス」 2024/2/16
人が住み、人が生きながらえるには食べ物が必須だ。山の斜面に石垣を築き、段々畑アンデネスを作り、さまざまな作物を育て、300~1000人ほどの人々の食生活を守った。東に面した斜面は日当たりがよく、ジャガイモ、トウモロコシなどがたくさん収穫できたという
段々畑アンデネスの脇には作物を貯蔵したり、農具を保管するとんがった三角屋根の貯蔵庫がある。貯蔵庫には窓が多く、農作物を保管するため、風通しをよくしていた
こんな急斜面にも小さな段々畑アンデネス。マチュピチュ遺跡を歩いていて妙に納得したが、マチュピチュの人々はどんな過酷な地形でも果敢と立ち向かい、コツコツとやり遂げる強靭な精神の持ち主だったんだろうなと思う 
その段々畑アンデネスでくつろぐマチュピチュのマスコット「リャマ」。耳にタグが付けられている。本来はこの地に生息しないラクダ科の動物で、アンデス高原より連れて来られたそうだ。のんびりしているだけのように見えるが、実は広大な段々畑の草を食べ、除草するという大きな役目を担っている
10.聖なる岩と、つらなる山をかたどった石 2024/2/14-2/16
聖なる力が宿ると伝えられている「聖なる岩」。高さは3m、幅は7mの一枚岩の巨大な石だ。山を崇めていたインカの人たちが祈りをささげたと言われている
「この石は目の前に広がる連峰をかたどっています」と、ミゲルが言う。ミゲルは丁寧に連峰の山の名をひとつひとつ説明してくれるが、覚える暇はなかった(^_^;)。マチュピチュを取り囲む山々はインカの人々にとって、あがめる大切な対象だった
11.太陽をつなぎとめる石「インティワタナ」 2024/2/16
巨岩を削って造られたインティワタナ。一番高い位置にあり「太陽をつなぎとめる石」という意味を持つ石。中央に立つ36cmの角柱はそれぞれの角が東西南北を指し、柱の対角線上を冬至の太陽が通過すると言う。太陽暦を利用していたインカの人が日食によって太陽が消えないよう、儀式を行ったとされる。インティワナは日時計の役割も担っていたようだ
12.天体観測の石 2024/2/16
直径60cmほどの中をくり抜いた2つの丸い形の石が並ぶ。水を張って、天体観測に利用した石だと言われている
13.「水」を治める 2024/2/16
水なくして、作物は育たない。畑に水を引き込むために造られた結構太めの水路がここ。ガイドのミゲルによると、水源となる山の水はマチュピチュから700mほど先にあったそうだ。そこから水を引き込むというインカ文明の高い技術力がマチュピチュの街を支えた
700m先から引いた水は無駄にはできない。水の流れには気を使ったことだろう。建物の脇にも小さな水路が引いてあった 驚いたことに今も細々だが、水汲み場には水が流れていた。山から引いた石の水路がいかに高い技術で造られたものかが伺える。居住区まで16カ所の水汲み場が整備されているとか
4.「石」を治める 2024/2/16
優に人の背丈を超える石壁が両方から迫る狭い通路は圧巻。大きな石ほど、加工は難しいはず。まして、さまざまな形の石同士を緻密に積んでいくには、労力はもとより、経験とものすごい知識が必要だっただろうなと思う
たったひとつしかない入り口「市街地入口」。入り口の上に置かれた石はおよそ3トン。その石の上に小さな石が見事に整然と積まれている 作業小屋。石などの建材を加工していた場所だという。加工前の石がそのまま残さていた
急斜面を利用して建てられた2階建ての家。坂の上に建っていて、1階からも2階からも出入りができる。1階が住居になっていて、2階は板を渡して利用したとされる
不思議だったのが窓。なぜ開いた窓と、閉じた窓があるのだろうかと思っていた。窓は光を取り入れる大切な場所。だからこそ閉じた窓が何を意味するのだろう、と思いながら眺めていたら、窓ではなく、物を置くための棚だったのだ、とやっと気づいた
作業小屋の向かい側に大小さまざまな花崗岩がゴロゴロと転がっていた。マチュピチュの建物はほぼここで切り出された花崗岩が利用されたそうだ。巨大な岩を切る時、割れ目に木の棒を差し、木に水をふくませ、木の膨張によって、石を割ったと言う。また、ミゲルの話では、割れ目に入れた木などを燃やして割り、燃えた後のススの汚れは洗って、きれいにしてから建物などに使用したそうだ。石の加工にはブロンズ製の道具や固い石が使われたと言う。インカ文明は「石」を克服した文明だと改めて思う
5.マチュピチュの隠れたマスコット 2024/2/16
「色がグレーだから安全です」と教えてくれたミゲル。ミゲルが指差さなければ、わたしたちも気づかなかった。石の上で丸くなって休んでいたのは、外見はウサギのようだが、実はネズミの仲間のビスカッチャ。灰色の毛で覆われているので、石のそばにいれば、保護色となり、外敵から身を守ることができるのだ。岩のすき間で暮らし、暖かい午後に遺跡で日向ぼっこをする。アンデスではビスカッチャとは違う食用ネズミ「クイ」がいて、丸焼きの料理が人気
マチュピチュ探検を終えて 2024/2/16
ツアーの最後に、段々畑「アンデネス」を歩いて、出口に向かった。さっきまでアンデネスは小さな段々畑の寄せ集めだと思っていたが、実際に歩いてみると、結構広くて、たくさんの農作物が実っただろうな、と想像できた。マチュピチュ繁栄のために、段々畑アンデネスが果たした役割は大きかっただろうなと思う

ところでツアーはわたしたちにとって、ちょっと過酷だった(^_^;)。6人のツアー客でわたしたちカップルが一番の年長。それでも平地なら2万歩歩いても平気なわたしたちだが、特にわたしは上り下りが大の苦手だった。nabeさんもサンティアゴの詐欺被害で参っていた。できることなら、わたしが事前に作ったHPの資料を見ながら、二人だけで自分たちに合った速度でのんびり歩いて、おしゃべりや撮影を楽しみたかったなと思う。また、これからマチュピチュに行かれる方は足腰に自信がないと、ちょっと辛いかもしれないね(^_^;)

次は 15.オーシャニア・マリーナのお楽しみ総括編<№3>

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