|
能・狂言のえとせとら(bP)(府中の森芸術劇場開館25周年記念の解説より) 府中の森芸術劇場で能・狂言が開催される時は、できるだけ、出かけるようにしている。 通常の舞台と違って、府中の森芸術劇場での能・狂言の演目には、解説がついているからだ。2017年を迎えて、早々の1月14日(土)、狂言「佐渡狐」と能「小鍛冶」を観てきた。
質疑応答の形で質問を受け、実にわかりやすく、またその質問から輪を広げて、いろいろと知識を披露してくれるので、楽しく聞くことできる。すっかり中森氏のファンになってしまった。 中森氏のお陰で、少しずつ能や狂言の知識が積み重なって、更に舞台を楽しめるようになってきているところだ。よい機会なので、自分の知識のまとめの意味も含めて、アイビーネットにも少しずつ中森氏の話を紹介することにした。
今回、その解説に沿って、「能・狂言のえとせとら」を書くことにした。 「能のはじまり」
文字がなかった時代には、口写しで、語り継がれていったに違いない。 語る話をおもしろくさせるために、話に抑揚がつき、表情を作り、動作を加え、衣装や小道具を使い、相手役を設け、背景や大道具などのセットを置き、更にその場の雰囲気を作っていったものと思われる。 「能は武士の芸事」 ただ、能は、殿様など、武士がたしなむ「芸事」だったため、あまりにリアルな表現は好まれず、無骨な武士など、誰でもが演じることができるよう、写実は、ごく初期の段階で止まってしまい、「語り物」の面影をきわめて色濃く残したまま、立派に深刻化した舞台芸術に成長していったと書かれている。 こうして、能は武士の教科書となり、観客である武士もまた、みな謡いを習っていたので、舞台で演じる役者も、観客も、文章はほぼ暗記されており、物語の知識もあるので、能は、端正で、正確で、品格高く、迫力があり、美しいことを追及されていったと思われる。 逆に考えると、能を知らない人にとっては、きわめて、不愛想で、不親切な演目かもしれない(^^;)。 死ぬほど退屈をして、「オレが裁判官なら、懲役5年を宣告する代わりに能を5年見ろと言ってやる」と言ったフランス芸術家もいたそうだ(^^;)。 中森氏の手助け
きっと、能は、教養をたしなみ、武士社会に生きるための忍耐力を養うための、武士のための最適な芸事だったに違いない。 ただ、演者によっては、辛抱をしても、何の感銘も得られずに帰ることもありますと、中森氏は観客の笑いを誘った。わたしも演劇の中で、一番眠るのに最適な芸事だと思っている(^^;)。 でも、だからこそ、その曲と、演者の技量と、出来栄えと、観客の感性が一致したとき、他では得られない感動を得ることができるのです、と中森氏は語る。 そのために、中森氏は、観客の理解の一助に、事前の解説と、事後の質疑応答を原則として行っているそうだ。ただ、この「物わからせの良さ」が、一部の人たちには渋い顔をされていることも事実、と締めくくっていた。 能の拍手のタイミング 拍手という習慣はもともと日本にはなかったと、解説には書いてある。 日本で手を叩くのは、神前で、「柏手(かしわて)を打つ」、つまり、神様を呼び出すための礼拝作法だったからだ。 そのため、明治以前の日本では、人前でむやみやたらに手を打つものではなかったそうだ。 拍手が始まったのは、日本国憲法の基となったイギリス帝国議会が拍手という行為をもって、賛成の義を表すということが、日本に入ってきてから根付いたと言われている。 能は室町時代に一般娯楽として生み出された演劇であり、江戸時代以降は、武士たちのたしなみとして、行われた。また、将軍や大名が自らシテ(主役)を舞うような演劇だった。 そのため、当時の能は「観る」のではなく、「拝見」するものだったという。そのため、拍手をするのは、とんでもない行為だった訳だ。本来は、終わってから、楽屋に伺って、ご挨拶するものだったとのことだ。 現在では、拍手をしてもかまわないそうだが、ただ、拍手のタイミングがあると書かれている。 「始まりの拍手」は、調べが鳴り、片幕より笛の方が登場したところがよく、「終わりの拍手」は、シテ方、道具、お囃子方が帰ったところが拍手のタイミングだそうだ。 能を観る機会があったら、この「能・狂言のえとせとら」をちょっと思い出していただけたら嬉しいと思っている(^^)。 |