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パックンが乗り越えた「貧乏というコンプレックス」(日経2016/2/6より)
老若男女に人気のパックンが極貧の中に育った青年だとは思ってなかった。てっきり、ハーバード大学を出たお坊ちゃん育ちだと思っていたのだ。 パックンがどうやって、極貧生活を乗り切ったのか、日本で英会話の講師になり、やがて、タレントとして活躍し、今や大学で教鞭も取るまでに成功した「パックンの成長の糧」は一体なんだったのだろう? 彼の生き方を知って、今の軟弱な若者たちが少しでも成長するきっかけになったらよいのに、と思わずにはいられなかった。 パックンは落ち着きのない子供だった(^^) 「とにかく落ち着きのない子供だったな。好奇心いっぱいで体を動かすのも人と話すのも大好き。 大人ともすぐ仲良くなれるので、様々な仕事を手伝った。 サーカスの屋台係をしたり、獣医の助手をしたり。将来の夢は弁護士、建築家、天文学者、政治家、役者・・・。2週間おきに変わっていった。飽きやすいんだ。」 目をキラキラさせた、天真爛漫な小さなパックンが目に浮かぶ。 でも、パックンは勉強も好きだった。 「勉強も好きだった。宿題はゲーム感覚で、どうやって付加価値をつけようかといつも考えていた。負けん気は人一倍強かったけれど、負けると、すぐ泣いていた。」 ここを読んで、なぜか試合に負けると、大声で泣き出す小さな愛ちゃん(卓球)が思い浮かんだ。負けん気の強さは、結局は技能を磨く最大の糧なのかもしれないと思う。 パックンがハーバード大学に入ったのは、「入れてくれたから入っただけ」と言う。でも、日頃の勉強の積み重ねが実ったせいだろう。ほかの大学は全部落ちたそうだ。アメリカの大学は選考基準が多様だからだそうだ。 でも、ハーバード大学に入ったことはパックンにとって、ひとつの人生の踏み台になったと思う。日本でタレント活動をする上で、「ハーバード大学出身」という勲章は、とてつもなく大きな踏み台になったはずだから。 貧乏のコンプレックスの塊だったパックン 10歳から18歳まで、朝3時半に起きて、6時半まで400軒以上の新聞配達を年中無休で続けたのは、「ど貧乏」だったからだという。学費ローンを完済するまで必死にアルバイトをし、それも、いつ破たんするかわからない状態だったというから、半端じゃない困窮生活だったと思う。 学校にはたくさん裕福な子がいて、見せつけるようにいい車に乗ってくる。パックンが質素なお弁当を食べている横で、豪華なお弁当は半分残して捨てる子供がいる。 「僕に食べる?」と聞きもせずに捨てるお弁当に、パックンはこれは経済的ないじめだと何度も思ったという。 かなりすさまじい話だ。 人と同じフィールでは負けるなら、違うフィールドで戦えばいい! だから、バレーボールを選ぶ。競技人口も多くなく、すぐに活躍の場を手にすることができたという。 また、モテたくても、高い洋服は買えないので、個性で勝負する。 高校3年生の1年は、短パンで過ごしたという。また、1年間、靴を履かなかったそうだ。コロラドの冬はものすごく寒いから、「面白いやつ」と思われようとしたのだという。 お金をかけず、日本で人生に挑戦する 日本に来たのは、友人に誘われたから。パックンが入っていた合唱団のツアーで飛行機代が出たこと、住居は友人のところへ居候した。お金をかけずに、違う国で暮らすことに、挑戦する道を見つけたのだ。 日本語は来日してから、独学で学んだという。上京して、お笑いコンビを組んだことが、今の人生の発端らしい。 『パックン』という仕事は、一大プロジェクトみたいなもの。仕事の技を磨き続けて、20年後には『いぶし銀』と言われるくらいになりたいね」 と書かれていた。 経済的に困窮する日本の若者へメッセージ 極貧というマイナス条件を、持ち前の努力と柔軟な発想で、プラス条件に代えたパックン。 経済的に困窮する日本の若者に向けて、素敵なメッセージを送っていた。 「『開き直りが必要』と助言する。それは、『どうせこれが私の人生』と開き直れという意味ではない。『今は苦しい状況にいても、これから先は自分次第』と思うことだという。 『自分はかわいそう』と思い続けるより、前を向いてほしい。そのためには、自分が持っている物を5つ挙げてみることを提案する。 若さ、健康、友達、お母さんに愛されている、安くておいしいパン屋さんを知っているとか、どんな小さなことでもいい。そこでまず幸せを感じよう。そして、前を向こう」と、温かいパックンのメッセージが締めくくられていた。 |